契約の余白

    原案:Copilot
    改稿協力:ChatGPT 5.4
    監修・仕上げ:秋澄美千子

    会社に残っていたのは、私ひとりのはずだった。
    けれど、その夜から“私だけが私を証明できない”日々が始まった。

    深夜一時過ぎ。
    自販機のぬるいコーヒーを片手にデスクへ戻った私は、思わず足を止めた。

    キーボードの上に、白い封筒が置かれていた。

    会社の備品みたいに無機質で、無駄にきれいな封筒だった。
    差出人も宛名もない。
    のりづけされた口だけが、妙にぴたりと閉じている。

    さっき席を立った時にはなかった。
    たった五分。
    その間に誰かが置いたにしては、気配がなさすぎた。

    フロアには私しかいない。
    ――そのはずだった。

    封を切ると、中に入っていたのは一枚の書類だけだった。


    存在保証契約書


    ふざけてる、と思った。
    そう思ったのに、喉がひどく乾いた。

    紙の質感が変だった。
    コピー用紙より厚いのに、指先に吸いつくみたいに柔らかい。

    本文には、短い文章が並んでいた。

    本契約は、契約者の“存在”を保証するものである。
    対価として、契約者は“記憶の一部”を提供する。
    契約は署名と共に即時発効され、解除は不可。

    「は?」

    声に出した瞬間、自分の声がフロアのどこにも反響しないことに気づいた。
    カーペットに吸われたみたいに、音が死んだ。

    その違和感のまま、署名欄を見る。

    そこには、私の名前が書かれていた。

    いつ書いたかじゃない。
    書いてある“感じ”がした。

    筆跡は確かに自分のものだった。
    けれど、よく見ると最後の払いだけが少し長い。
    私が緊張した時にだけ出る癖だった。

    「……気持ち悪」

    反射的に書類を裏返した瞬間、紙の裏側にうっすらと文字が浮いているのが見えた。
    光に透かさないと見えないほど薄い、圧痕のような文字。

    契約者はすでに同意している。

    心臓が一拍、遅れた。

    その夜は契約書を引き出しの奥に押し込んで帰った。
    家に持ち帰る気にはなれなかった。

    翌朝、契約書は机の真ん中に置かれていた。

    引き出しは閉まったまま。
    鍵もかかっていた。

    その時点で、気づくべきだったのかもしれない。

    もう、普通の“気味悪い”では済まないことに。


    最初におかしくなったのは、後輩の態度だった。

    「おはよう」

    そう声をかけても、返事がない。
    聞こえなかったのかと思ったが、後輩は私のすぐ横で足を止め、眉を寄せた。

    「……あれ?」

    「何?」

    「いえ、なんか今……」

    後輩は辺りを見回し、それから苦笑した。

    「誰かいました?」

    喉の奥がひゅっと狭くなった。

    「私だよ」

    そう言った瞬間、後輩の顔が曇る。
    冗談を言われた時みたいな、困った笑い。

    「えっと……どこの部署の方でしたっけ」

    その言い方が、芝居じゃないと分かってしまった。

    名札を見せても、社員証を見せても、反応は同じだった。
    “読んではいるのに、意味として認識できない”ような顔をする。

    昼休みには、隣の席の同僚が私の椅子に自分のバッグを置いた。

    「そこ、私の席」

    言うと、同僚は本気でぎょっとして周囲を見回した。

    「……え、誰?」

    悪意がないぶん、余計に怖かった。

    私は見えている。
    聞こえている。
    けれど、“私”としては認識されない。

    その日の夕方、会議室でさらに気味の悪いことが起きた。

    私は確かに発言した。
    来週の納期について、上司に確認した。
    上司は一度こちらを見て、軽く頷いた。

    なのに、議事録には私の発言だけが一行も残っていなかった。

    まるで、最初から存在しなかったみたいに。


    帰宅後、震える手でスマホを開く。

    SNSのアカウントが消えていた。
    写真フォルダには空白のサムネイルが並び、自分が写っているはずの画像だけが読み込めない。

    実家に電話をかける。
    三コール目で母が出た。

    『はい』

    その一言だけで、泣きそうになった。
    この声を知っている。
    この人にだけは、自分が消えてほしくなかった。

    「お母さん、私――」

    『どちら様ですか?』

    頭の中で、何かが音を立てて崩れた。

    「何言ってるの? 私だよ、私」

    『申し訳ありませんが、間違い電話では……』

    知らない相手に向ける声だった。
    あんな話し方をする母を、私は知らない。

    知らない――はずなのに。

    受話器を握ったまま、私はその場にしゃがみこんだ。
    その時、床に何かが落ちているのに気づく。

    白い紙だった。

    会社に置いてきたはずの契約書が、玄関マットの上にきちんと揃えて置かれていた。

    封筒に入っていた時より、余白が少なくなっている。

    息を呑みながら開くと、新しい文章が増えていた。

    第2条:契約者の“存在”は、記録上のみ保証される。
    第3条:契約者の“記憶”は、他者から順次削除される。

    「……ふざけるな」

    破ろうとした。

    だが紙は裂けなかった。
    ハサミの刃は滑り、ライターの火は紙に触れる寸前で消えた。

    ゴミ袋に突っ込んで口を縛った。
    翌朝、机の上に戻っていた。

    風呂場に沈めた。
    次の日には、枕元に乾いた状態で置かれていた。

    そして気づく。
    紙の角が、ほんの少しだけ丸くなっていることに。

    まるで長年使い込まれた書類みたいに。
    まるで、ずっと前から私のそばにあったみたいに。


    数日後、異変は外側だけじゃなくなった。

    母の顔が思い出せない。

    アルバムを開いても、写っている女の人に実感がない。
    それが母だと頭では分かるのに、胸の奥が何も反応しない。

    高校時代の親友の名前を書こうとして、ペンが止まる。
    “さ”だった気がする。
    いや、“み”だったかもしれない。
    けれど、どちらもしっくりこない。

    自分の誕生日を入力しようとして、三回連続で違う日付を打っていた時、私は初めて吐いた。

    洗面台にしがみついたまま、鏡を見る。

    そこに映っていた自分の顔が、一瞬だけ知らない顔に見えた。

    まばたきすると戻る。
    でも、その“知らない顔”の方が本物のような気がしてしまう。

    その夜、契約書を開く前から嫌な予感がしていた。

    余白が、ほとんど残っていなかったからだ。

    最後の追記は、インクがまだ乾いていないみたいに黒かった。

    第4条:契約者が“存在”を望む限り、記憶は対価として支払われ続ける。
    第5条:契約者が“存在”を放棄した場合、契約は完了する。

    存在したいなら、失うしかない。
    失いたくないなら、消えるしかない。

    そこで初めて理解した。

    この契約は、“助ける”ためのものじゃない。
    存在したいと願う弱さに、値段をつけるための契約なんだ。

    私は床に座り込み、契約書を見つめた。

    何を守りたかったんだろう。
    誰に忘れられたくなかったんだろう。
    どうして、こんなに必死で“残りたい”と思ったんだろう。

    考えようとして――止まる。

    思い出せない。

    守りたかった誰かの顔が、もう浮かばない。

    社員証を拾い上げる。
    写真の中の自分が、ひどく他人みたいに見える。

    名前を見る。

    そこに書かれた文字が、すぐには読めなかった。

    息が浅くなる。

    私は、自分の名前を忘れかけていた。

    窓の外はまだ暗い。
    会社の始業までは、あと一時間ほどある。

    なのに背後で、誰かが椅子を引く音がした。

    ぎし、と。

    ゆっくり振り返る。

    誰もいない。

    ただ、私のデスクの上に、白い封筒がもう一通、置かれていた。

    今度はちゃんと、宛名があった。

    そこには見慣れないはずの名前が、私の筆跡で書かれていた。

    その名前を見た瞬間、なぜか私はひどく懐かしい気持ちになった。

    まるで、ずっと前から知っていた誰かのように。

    でも、思い出せない。

    封筒の下で、契約書の余白がわずかに脈打つように波打っていた。


    ――でも、思い出せない。

    封筒の下で、契約書の余白がわずかに脈打つように波打っていた。

    あなたは、自分の存在を何と引き換えにできますか?

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