零時更新

    その契約は、生きるためのものではなかった。

    生き続けさせるためのものだった。

    原案:Grok

    改稿協力:ChatGPT 5.4

    監修・仕上げ:秋澄美千子

    目次

    零時更新

    深夜十一時五十六分。

    オフィスの蛍光灯は、眠気を追い払うには白すぎて、正気を保つには冷たすぎた。

    私はコピー機の前で、会議資料の印刷を待っていた。

    本当なら、こんな時間まで残るつもりじゃなかった。だが上司に「明日の朝イチで使うから」と言われれば、帰るとは言えない。

    コピー機が低く唸る。ガタン、ガタン、と紙を吐き出す音が続く。

    だが、枚数が合わない。資料は十五部のはずだった。それなのに、トレイの上には二十枚、三十枚と紙が重なっていく。

    「……は?」

    慌てて停止ボタンを押したが、コピー機は止まらなかった。紙が吐き出される。また一枚。また一枚。印刷された文字を見た瞬間、私は息を止めた。

    生存契約書白黒のインクで印字されたその文字は、社内資料のフォントと同じだった。そのことが、余計に気味が悪かった。

    差出人欄は空白。

    契約相手の欄には、私の名前が印字されている。フルネームで。しかも、署名欄にはすでに私の署名があった。見慣れた癖字。

    急いで書いた時にだけ少し傾く、あの字。

    「なにこれ……」喉が乾く。

    悪質な冗談にしては手が込みすぎていた。印影まで押されている。しかもその印鑑は、実家を出る前に使っていた古い認印だった。今はもう持っていないはずのものだ。

    ページをめくる。

    そこには、条文が淡々と並んでいた。

    第一条 契約者は、毎日呼吸をもって義務を履行すること。

    第二条 義務履行の停止、遅延、怠慢は、即時に違約とみなす。

    第三条 違約が確認された場合、契約は回収に移行する。

    第四条 本契約は、契約者が存在する限り、毎日午前零時に自動更新される。

    「……回収って、何」

    声に出した瞬間、コピー機の液晶画面が点滅した。

    【更新待機中】

    表示されているのは、それだけだった。心臓がひとつ、大きく脈打つ。壁の時計を見る。十一時五十八分。あと二分。なんとなく、息が浅くなる。

    いや、気のせいだ。

    そう思って深呼吸しようとした瞬間、契約書の余白に、勝手に文字が浮かび上がった。呼吸数低下を確認義務履行状態を再計測中

    「は?」

    思わず紙を落とす。

    床に落ちた契約書は、ふわりと裏返った。そこに、手書きのような文字が一行だけ増えていた。

    契約者は、契約内容を読了した時点で、すでに履行を開始している。喉がひゅっと鳴る。その瞬間だった。

    コピー機の排出口から、また新しい紙が一枚だけ吐き出された。そこには、たった一文。呼吸を止めないでください。背筋が粟立つ。

    私は契約書を掴み、破ろうとした。だが紙は裂けない。折り曲げても、丸めても、すぐに元の形に戻る。ゴミ箱に押し込む。次の瞬間には、コピー機のトレイにきれいに揃えて置かれていた。

    「ふざけるな……!」

    ライターを取り出して端を炙る。火はつかない。それどころか、炎が近づいた瞬間、コピー機の液晶が赤く光った。

    【義務履行に乱れを検知】

    同時に、肺の奥がぎゅっと縮んだ。

    「っ……!」息が吸えない。

    喉が塞がれたみたいに、空気が入ってこない。慌てて口を開け、音を立てて空気を吸い込む。

    すると、ふっと胸の圧迫が和らいだ。液晶表示が戻る。

    【履行再開を確認】

    その文字を見た瞬間、足がすくんだ。

    これ、冗談じゃない。私は呼吸を“している”んじゃない。させられている。

    時計の秒針が進む。

    十一時五十九分三十秒。コピー機が、また唸った。ガタン、ガタン、ガタン――今度は契約書ではなかった。真っ白な紙が何枚も吐き出されていく。

    最初は白紙に見えた。けれど、じっと見ているうちに、その紙の表面に、うっすらと人の顔のようなものが浮かんでいることに気づいた。

    目を凝らす。

    社員証の証明写真みたいな、無表情な顔。知らない顔が並んでいる。十枚、二十枚、三十枚。

    いや、知らない顔じゃない。どこかで見たことがある。総務の佐伯。経理の野村。先月、急に辞めた派遣の女性。二年前、社内報からいつの間にか消えていた課長。

    「……まさか」

    その瞬間、一番上の紙に文字が浮かび上がった。

    回収済契約者一覧膝が抜けそうになった。

    コピー機の中で、何かが生きているみたいに、低い唸りが続いている。私は後ずさった。だがその時、背後から声がした。

    「まだ帰ってなかったの?」

    びくりとして振り返る。総務の佐伯が立っていた。いや――佐伯、だったもの。

    暗い廊下の向こうに立つその顔は、確かに佐伯なのに、どこか印刷がずれた写真みたいに輪郭がぼやけていた。口元だけが、不自然に笑っている。

    「零時、もうすぐだよ」

    声が少し遅れて聞こえる。口の動きと音が合っていない。

    私は一歩下がる。佐伯が、ゆっくりとこちらへ歩いてくる。

    「更新、忘れないでね」

    「……何を言って」

    「ちゃんと呼吸しないと」

    その言葉と同時に、私の肺がまたぎゅっと縮んだ。苦しい。吸わなきゃいけない。でも吸うたびに、この契約を認める気がした。

    時計を見る。十一時五十九分五十秒。十秒前。

    コピー機の液晶が真っ赤に染まる。

    【零時更新を開始します】

    「やめろ……!」

    逃げようとした瞬間、コピー機の排出口から最後の一枚が滑り出た。そこには、今日の日付と時刻、そして新しい条文が追加されていた。

    第五条 契約者は、毎日零時に更新意思を示すため、一度以上の深呼吸を行うこと。

    頭が真っ白になる。やらなければ違約。やれば更新。そんなの、選択肢じゃない。

    時計の針が、零時を指す。カチ、と小さな音がした。肺が、内側から掴まれたように強く縮む。

    「っ、は――」

    反射で、私は息を吸った。深く。大きく。冷たい夜の空気が肺の奥まで落ちていく。その瞬間、コピー機が満足したみたいに静かになった。

    液晶画面に、黒い文字が表示される。

    【更新完了】

    その下に、もう一行。

    【次回更新まで 23:59:59】

    私はその場に立ち尽くした。

    手の中の契約書が、じんわりと体温を持ち始める。紙のはずなのに、脈打っている。やがてコピー機が、また低く唸り始めた。今度は一枚だけ、静かに紙を吐き出す。真新しい生存契約書。

    契約相手の欄は、まだ空白だった。けれど署名欄には、すでに薄く何かの筆跡が浮かび始めていた。

    明日の朝、誰かが最初にこのコピー機を使う頃には、きっとその名前は、はっきり読めるようになっている。私は呼吸を止められないまま、それを見つめていた。胸が上下するたび、契約書の端が、かすかに揺れた。

    まるで――私が生きているのではなく、契約に生かされているみたいに。

    あなたは今日、何回「自分の意思で」呼吸をしましたか。

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