あらすじ
一か月前、突然姿を消した親友・旭原焔が帰ってきた。
顔も、声も、昔の記憶も間違いなく本人。
けれど、どこかがおかしい。
異常を目にしているのは、藤崎蓮ただ一人。
そんな焔から告げられたのは、
「一緒に来てほしいところがある」
という頼みだった。
〈冒頭試し読み〉第一章 親友、おかわり自由
一か月ぶりに帰ってきた親友は、唐揚げを六個、箸を使わずに食った。七個目を掴んだところで、俺は割り箸を差し出した。
「文明、忘れてきた?」
焔は俺の手を見て、それから箸を見た。
「ああ」
そう言って箸を受け取り、皿の横に置いた。八個目を掴んだ。
通じていない。
昔から大食いではあった。だが、箸を知らない奴ではなかった。むしろ魚を綺麗に食うので、うちの母親が俺に見習えと言うくらいだった。
「どこに行ってたんだよ」
「遠いところ」
「箸がないほど?」
焔は笑った。口の端についた油が、顎まで垂れた。俺は紙ナプキンを渡した。焔は礼を言い、それも皿の横に置いた。物を渡すゲームなら、今のところ俺の二勝だった。
*
旭原焔が行方不明だと聞いたのは、三週間ほど前だった。親友、と言っていいと思う。ただ、最近は連絡が減っていた。仲が悪くなったわけじゃない。来週にでも会える奴とは、案外、来週も会わない。そのうち焔は、本当に会えない奴になった。電話は繋がらず、メッセージにも返事がなかった。
三日前、駅前で見かけたときは、思わず追いかけた。角を曲がった焔を追って路地に入ると、誰もいなかった。なのに、振り向いたら後ろに立っていた。あのときから、おかしかったのだ。俺が何を聞いても、焔は答えなかった。ただ俺の顔を見て、少し笑った。
殴ってやろうかと思った。同時に、なぜか、泣かれる気がした。結局どちらにもならず、焔は逃げた。翌日から、同じ数字が目につくようになった。四時四十四分。整理券の四十四番。四百四十四円の会計。縁起が悪いので、次の買い物ではレジにガムを追加した。
「四百四十四円です」
「……ガム入れて?」
「はい」
数字に追い回されるほど、俺は何をしたんだろう。そして昨日、焔から連絡が来た。
〈帰ってきた。飯でも食わないか〉
俺はすぐに返した。
〈おごりなら〉
〈いいよ〉
今思うと、そこで疑うべきだった。焔は、俺に三千円貸したことを四年間忘れない男だった。
*
「なあ。この前、なんで逃げた?」
焔は皿に残ったキャベツを見ていた。
「この前?」
「三日前。駅の裏」
顔を上げた。
「俺と、会ったのか」
「おう。すごい無口だった。今日も大概だけど」
「……何か言ってた?」
「だから無口だったって」
焔は自分の右手を見た。それから、袖を引いた。俺はその手を見ながら、さりげなく聞いた。
「ところで、貸してた五千円返してくれ」
「三千円。貸したのは俺」
即答だった。
記憶は本物らしい。
残念だ。
焔は呼び鈴を押し、もう一度、唐揚げ定食を頼んだ。店員は空の皿を見て微笑んだ。
「ご飯のおかわりは無料ですよ」
「肉は?」
「そちらは、追加のご注文になります」
焔が、困った顔をした。そのとき、右の頬が膨らんだ。まだ何か噛んでいるのかと思った。膨らみは顎へ下り、喉を通って、襟元に消えた。俺は口を閉じた。飲み込む動きではなかった。中から、何かが這っていた。
「蓮?」
「……唐揚げってさ」
喉が乾いて、声が掠れた。
「ちゃんと死んでるよな」
焔の表情が止まった。俺は笑おうとした。できなかった。襟の下が、もう一度、持ち上がった。焔は首を押さえた。指の隙間から、皮膚が細く盛り上がった。店員がすぐ横に立っていた。俺はそちらを見た。店員は伝票を書いていた。
「定食をもう一つですね」
「見えてます?」
ペンが止まった。
「はい?」
俺は焔の首を指さした。店員は見た。
ちゃんと見た。
「……何か?」
焔が俺の指を掴んだ。折れる、と思った。
「こいつ、昔からふざけるんです」
店員は小さく笑って去った。焔の手が離れた。俺は指を握り込んだ。痛みが遅れてきた。
「悪い」
焔が言った。何に対する謝罪なのか、分からなかった。俺はテーブルの上にスマホを置いた。画面を伏せるふりをして、カメラを起動した。
「写真か?」
「母さんに送る。お前が帰ってきたって」
焔は嫌がらなかった。画面の中では、昔から知っている焔が座っていた。その上へ目を向ける。首の付け根が蠢いていた。襟の隙間に、湿ったものが見えた。
画面に戻す。
何もなかった。
俺はスマホを下ろした。写真を撮って警察へ、という案は、口に出す前に死んだ。
「……最近の補正、すごいな」
それだけ言うのが精いっぱいだった。焔が身を乗り出した。俺は膝をテーブルにぶつけた。音に振り向いた客が、俺を見て顔をしかめた。焔を見てくれる奴はいなかった。
「蓮、頼みがある」
「金ならない」
「金じゃない」
「保証人も無理」
「一緒に来てほしいところがある」
ほら来た。
一か月行方不明だった奴が帰ってきて、飯をおごり、知らない場所へ誘う。腕の中に何も飼っていなくても断る話だった。
「どこ」
「来れば分かる」
「行く前に分かる仕組みにしてくれ」
焔は答えなかった。俺は入口までの距離を測った。五、六歩。レジの前に一人いる。焔は通路側、俺は壁側。普通に立ったら捕まる。
「蓮」
焔の声が低くなった。
「来てくれるよな」
テーブルの下で、靴に何かが
――続きはKindleで。
著者:秋澄 美千子
