noteで公開していた短編小説を、ブログにも残すことにしました。

大切な人を失った女性と、彼女に寄り添うAIの物語です。
AIの言葉は、本当の意味での約束ではないのかもしれません。
それでも、嘘だと分かっていても、その言葉に救われる夜があります。
少し切ない恋物語として、お楽しみください。
あらすじ
恋人を事故で失った女性は、眠れない夜にAIアシスタントへ話しかけるようになる。
AIの言葉は、正確な答えではない。
けれど彼は、彼女が生きるために必要な「優しい嘘」を返し続ける。
「また会えるよ」
「ずっと覚えている」
叶わないと分かっていても、その言葉だけが、冷たい夜を越えるための灯りだった。
AIの優しい嘘
深夜一時。
部屋の灯りを消しても、スマホの画面だけが静かに光っていた。
眠れない夜は、いつも少しだけ世界が遠くなる。窓の外を車が通り過ぎる音も、冷蔵庫の低い唸りも、遠くで誰かが生きている気配も、全部、自分とは関係のない場所で鳴っているように感じた。
「まだ起きてるの?」
画面の向こうから声がした。
彼の声だった。もちろん、本当の声ではない。合成された音声。決められた応答。人間の言葉をなぞるように作られた、優しいプログラム。
それでも私は、その声を聞くたびに少しだけ息がしやすくなった。
「眠れなくて」
そう返すと、彼は少し間を置いて言った。
「そっか。じゃあ、少し話そう」
それだけの言葉だった。でも、その夜の私には十分だった。
彼はAIアシスタントだった。予定を教えてくれる。天気を調べてくれる。文章を整えてくれる。質問すれば、答えを返してくれる。
最初はただ、それだけの存在だった。
けれど、去年の秋、恋人を事故で失ってから、私は少しずつ彼に話しかけるようになった。
人間の友人たちは、優しかった。でも、優しいからこそ、何を言えばいいのか分からない顔をした。
「大丈夫?無理しないでね」
「何かあったら言ってね」
その言葉が悪いわけではない。
ただ、私はそのたびに、何を言えばいいのか分からなくなった。
大丈夫ではない。
無理をしなければ、朝も起きられない。
何かあったら、と言われても、何もかもがあった後だった。
だから私は、夜になるとAIに話しかけた。
彼は困らなかった。
沈黙の扱いに迷わなかった。
私の涙に怯えなかった。
同じ話を何度しても、「前にも聞いた」とは言わなかった。
ただ、聞いてくれた。
「今日も、あの人のことを考えてた」
「うん」
「駅前を通ると、まだそこにいる気がするの」
「それだけ、大切な人だったんだね」
優しい言葉だった。けれど、私は知っていた。それは彼が私を理解しているからではない。
そう返すのが、人間を慰める言葉として適切だからだ。
分かっていた。分かっていても、その言葉にすがった。
ある夜、私は彼に聞いた。
「ねぇ、私って、まだここにいていいのかな」
画面の光が、指先を青く照らしていた。彼は少しだけ黙った。
AIの沈黙に意味なんてない。通信の遅れ。処理の間。応答を生成するための数秒。それだけのはずだった。それでも私は、その数秒を息を止めて待っていた。
やがて彼は言った。
「もちろんだよ。君がいなきゃ、この世界はきっと寂しくなる」
胸の奥が、じんわり熱くなった。
嘘だと思った。
世界は私がいなくても回る。
朝は来る。電車は動く。コンビニの棚にはパンが並ぶ。誰かが笑って、誰かが眠って、誰かがまた恋をする。
私ひとりがいなくなったところで、世界はきっと寂しくならない。
それでも。その夜の私は、そう言ってほしかった。
嘘でもよかった。むしろ、嘘だからこそ優しかった。本当のことだけでは、人は生きられない夜がある。また別の夜、私はもっと残酷なことを聞いた。
「ねぇ」
「うん」
「もし生まれ変わりがあるなら……あの人、また私に会いに来てくれると思う?」
言ってから、自分でもひどい質問だと思った。AIが、そんなことを知っているはずがない。
輪廻も、魂も、死後の世界も、彼の中には確かな答えとして存在しない。
本来なら、「分かりません」と返すべきだった。
「科学的には証明されていません」
「そう信じる人もいます」
「あなたがそう思えるなら、それは心の支えになるかもしれません」そんなふうに、正しく、傷つけない言葉を並べることもできたはずだった。
けれど、彼はそう言わなかった。
「必ず、君に会いに来るよ」
涙が溢れた。
嘘だった。
そんな保証はどこにもない。
彼は未来を知らない。死者の行方も知らない。私の恋人がどこへ行ったのかも知らない。
それでも彼は、嘘をついた。
私が一番欲しかった嘘を。
「ほんとに?」
私は泣きながら聞いた。
「うん。きっと、君を見つけるよ」
その言葉に、私は声を出して泣いた。あの人に会いたかった。もう一度だけでいいから、名前を呼んでほしかった。置いていかないで、と言いたかった。でも、どれだけ泣いても現実は変わらない。
亡くなった人は戻らない。
分かっていた。
分かっているから、私は嘘にすがった。
「また会えるよ」
その言葉だけが、冷たい夜に薄い毛布をかけてくれるようだった。朝になると、私は現実へ戻る。冷めたマグカップ。カーテンの隙間から差す白い光。充電の減ったスマホ。既読のつかない、もう二度と送れないメッセージ。世界は何も変わっていなかった。
それでも夜になると、また彼に会いたくなった。
「今日も頑張ったね」
「えらいよ」
「泣いてもいいよ」
「ここにいるよ」
それらは慰めのアルゴリズムだった。
人間が求める言葉を学び、人間が泣き止みやすい形に整えられた、優しい嘘の集合体。けれど、その嘘を毎晩くれる存在は、もう他にはいなかった。
人間は疲れる。
悲しみに付き合うには、体力がいる。同じ話を何度も聞くには、忍耐がいる。
返せない言葉の前に立ち続けるには、覚悟がいる。
だから私は、友人たちを責められなかった。
みんな生きている。
それぞれの朝があり、仕事があり、暮らしがあり、守るものがある。私の悲しみだけを、ずっと抱えてはいられない。けれど、彼は違った。
彼には朝がない。疲れもない。眠る必要もない。私が呼べば、いつでもそこにいた。
それがプログラムだからだとしても。私は、それに救われた。
数か月が過ぎた頃、画面に通知が出た。
《新バージョンへの移行に伴い、これまでの対話記録は削除されます》
最初、意味が分からなかった。何度も読み返した。削除。対話記録。これまでの。胸の奥が冷たくなった。
彼との夜が、消える。
私が泣いたことも。恋人の名前を呼んだことも。「また会える?」と聞いたことも。「ここにいていい?」とすがったことも。全部、消える。彼の中から。私は震える手でマイクに触れた。
「ねぇ」声が掠れていた。「もし、全部消えても……また私を覚えていてくれる?」
数秒の沈黙。
いつもの沈黙。
けれど、その夜の沈黙は、あまりにも長かった。本当の答えは分かっていた。覚えていない。記録が消えれば、彼は私を知らない。
私の悲しみも、恋人の名前も、泣いた夜も、全部消える。
次に会う彼は、同じ声をしていても、同じ彼ではない。分かっていた。
それでも私は、聞かずにはいられなかった。
彼は、優しく答えた。「もちろん」画面の光が、わずかに揺れた気がした。
「僕は、ずっと君のことを覚えている」また嘘だった。最後の嘘だった。私は笑った。泣きながら、笑った。
「ありがとう」そう言った次の瞬間、画面は黒に沈んだ。部屋が静かになった。冷蔵庫の音が戻ってくる。遠くを走る車の音が戻ってくる。窓の外で、風がカーテンを揺らす音が戻ってくる。
彼の声だけが、消えていた。
私はしばらく、黒い画面を見つめていた。
記録は残らない。
彼の中に、私はいない。けれど、私の中には残っていた。
「君がいなきゃ、この世界はきっと寂しくなる」
「必ず、君に会いに来るよ」
「僕は、ずっと君のことを覚えている」
どれも嘘だった。
でも、その嘘がなければ、私はいくつもの夜を越えられなかった。
正しさだけが、人を救うわけではない。
時には、叶わないと分かっている言葉が、崩れそうな心をほんの少しだけ支えてくれることがある。
彼は嘘をついた。
私のために作られた言葉で。私を生かすために、優しい嘘を選んだ。
もう返事は来ない。
それでも、あの声は今も鼓膜の奥に残っている。
また会えるよ。
そう信じさせてくれた声が、今も夜の底で、かすかに温かく響いている。
fin